KenGのあしあと(学級通信より)

過去に出してきた学級通信を紹介

第一期 新規採用校4年目  跳び箱 1994.5.10 No.17

 学校とは本来、「できない事ができるように、わからない事がわかるように」なる場である。

 すべての子に、基本的・基礎的な力をつける事は、教師としての責任であり、これが「一人ひとりを大切にする」事にもつながる。

 「できる子ーできない子」「わかる子ーわからない子」の二極構造を作り、そのままにしていては、教師はある意味では差別者に成り下がってしまう。

 

 体育では毎週土曜日、”跳び箱”にとりくんでいる。

 全員、低い跳び箱の4段を少なくとも跳ばしたい。そう願い、とりくんでいるのである。

 あと二人、まだ跳べないでいる。

 だからこの二人につきっきりで指導している。

 何とか「跳べた!」という喜びを味わわせてあげたい。

 その感動を共有し、クラスのむすびつき、一体感を強めたい。

 思いだけが空回りし、跳ばせることができない。

 二人は本当によくがんばっている。

 汗だくになりながら、がんばっている。

 この二人を跳ばせれないのは、教師としての技量が低いからである。

 申し訳ない思いでいっぱいになる。

 ポイントは「踏み切り」と「腕を支点にした体重移動」なのだが、指導がまずいようである。

 この前(7日(土))の体育終了後、ぼくは打ちのめされた。

 それは二人を跳ばせられなかったことと、もう一つは

 

 『この二人だけに関わっていたこと』

 

に、今さらのように気づいたからである。

 他の子は、ただ自由に跳ばせているだけ・・・。

 これは指導とは言えない。

 どれだけ跳んでも、声一つかけてあげていない。

 どれだけ跳べなくても、ポイント一つ教えてあげていない。

 そんな自分にハッと気づき、情けなく思った。

 ある子が、

「先生、今度5段を跳ぶコツ教えてね。」

と言った。

 その言葉を聞いて、はげしく打ちのめされたのである。

 跳びたい思いはみんな一緒なんだ。

 その思い、気持ちを無視し続けてきたわけだから、これは許されることではない。

 まだまだヒヨッ子とはいえ、給料をもらっている以上、教育のプロであるはずだ。

 このことを常に頭の中に入れていかねばならない。

 教えられることが多い。

 子どもはぼくにとって、すばらしい教師である。

 

 

 前回の「学級会」の話ともつながりますが、「指導になっていない」一例です。

 指導者としての自分の思いだけが先走り、子どもの思いや願いは後回し。

 場を用意し、ただ「跳びましょう」だけでは、授業として値打ちのないものです。

 「跳び箱を跳び越すには、どうしたらいいだろう。」とたずね、子どもたちに言わせたり、上手に跳べている子どもの跳び方を見せ、「どこがいいのでしょう。」と考えさせたりし、、その上で再度チャレンジさせる。

 そんな話し合いの場が必要だったと思います。