学校とは本来、「できない事ができるように、わからない事がわかるように」なる場である。
すべての子に、基本的・基礎的な力をつける事は、教師としての責任であり、これが「一人ひとりを大切にする」事にもつながる。
「できる子ーできない子」「わかる子ーわからない子」の二極構造を作り、そのままにしていては、教師はある意味では差別者に成り下がってしまう。
体育では毎週土曜日、”跳び箱”にとりくんでいる。
全員、低い跳び箱の4段を少なくとも跳ばしたい。そう願い、とりくんでいるのである。
あと二人、まだ跳べないでいる。
だからこの二人につきっきりで指導している。
何とか「跳べた!」という喜びを味わわせてあげたい。
その感動を共有し、クラスのむすびつき、一体感を強めたい。
思いだけが空回りし、跳ばせることができない。
二人は本当によくがんばっている。
汗だくになりながら、がんばっている。
この二人を跳ばせれないのは、教師としての技量が低いからである。
申し訳ない思いでいっぱいになる。
ポイントは「踏み切り」と「腕を支点にした体重移動」なのだが、指導がまずいようである。
この前(7日(土))の体育終了後、ぼくは打ちのめされた。
それは二人を跳ばせられなかったことと、もう一つは
『この二人だけに関わっていたこと』
に、今さらのように気づいたからである。
他の子は、ただ自由に跳ばせているだけ・・・。
これは指導とは言えない。
どれだけ跳んでも、声一つかけてあげていない。
どれだけ跳べなくても、ポイント一つ教えてあげていない。
そんな自分にハッと気づき、情けなく思った。
ある子が、
「先生、今度5段を跳ぶコツ教えてね。」
と言った。
その言葉を聞いて、はげしく打ちのめされたのである。
跳びたい思いはみんな一緒なんだ。
その思い、気持ちを無視し続けてきたわけだから、これは許されることではない。
まだまだヒヨッ子とはいえ、給料をもらっている以上、教育のプロであるはずだ。
このことを常に頭の中に入れていかねばならない。
教えられることが多い。
子どもはぼくにとって、すばらしい教師である。
前回の「学級会」の話ともつながりますが、「指導になっていない」一例です。
指導者としての自分の思いだけが先走り、子どもの思いや願いは後回し。
場を用意し、ただ「跳びましょう」だけでは、授業として値打ちのないものです。
「跳び箱を跳び越すには、どうしたらいいだろう。」とたずね、子どもたちに言わせたり、上手に跳べている子どもの跳び方を見せ、「どこがいいのでしょう。」と考えさせたりし、、その上で再度チャレンジさせる。
そんな話し合いの場が必要だったと思います。