何日か前の、朝の会の時のこと。
Aさんが宿題のプリントを落としました。
自分たちもそんな時によくすることですが、Aさんは足を伸ばし、何とかつま先でプリントを手の届くところまでたぐりよせ、ひろおうとしていました。
でも、なかなか届きません。
(どうするのかな)と、様子を見ていました。
Aさんがどうするかより、前に座っている子がこの事態に気づくかどうか。
気づいたとして、どのような行動に出るか。
やがてSさんが、プリントが落ちていることに気づきました。
そして何気なくプリントをひろい、Aさんの机の上に置き、何もなかったかのように再び前を見て、朝の会に参加していました。
ぼくは、美しい光景だと思いました。
わざとらしくない、さりげないこのような行為は、とても美しいと思います。
あたりまえのことですが、あたりまえがあたりまえでなくなってきているのが今の社会の風潮で、案外気づいても、知らんふりが多く、「先生、プリントが落ちています。」と、言いに来るのは良い方なのです。
(「おちている」のに気づいたのなら、次どうすればよいのか考えて、行動できるよ
うになってほしいな。)
給食を食べ終わったあと、席を離れて騒いでいた子が何人かいたので、約束通り、「昼休みはありません。」と宣告しました。
しばらくすると、宣告された6人の姿は見あたらず、「遊びに行ったな!」と、カッとなり廊下に出ると、なんと廊下を、ぞうきんでふいていました。
自分たちなりの反省の仕方なのかと思い、しばらく放っておきました。
1年生の(給食)ワゴンが、彼らのそばを通りました。
牛乳パックの袋が落ち、散乱しました。
「あ〜あ。」という声。
その声の中、Kくん、Mくんは牛乳パックをひろい集め、1年生を助けていました。
これもさりげない、美しい行為です。
生活科のあと、落ちているゴミを黙ってひろってくれているのは、Oさん、Yさん、Nさん、Sくんです。
一番前の席にプリントを置いた時、その席の子がいないと、後ろの席までプリントを配ってくれるUくん、Gくん。
前の子のいすが机の中におさまっていなかったり、自分でできないことがあったりした時、Eさんは自然にフォローしています。
たくさんのこんな「さりげない」やさしさが広がればと、願っています。
子どもたちをじっくり観察していると、普段とは違う姿や、ここでよく出てきた「さりげない」行動を発見することがあります。
直接その子どもに声をかけ、褒めることもありますが、このように通信で名前を載せ、紹介すると、照れくさそうでいて、どことなく誇らしげな顔を子どもたちは見せます。
そして、家で読まれることで家族に褒められ、ますますドヤ顔になることでしょう。
また私もそういった姿を見つけると、とってもうれしく、ますます子どもたちのことが好きになるのです。