KenGのあしあと(学級通信より)

過去に出してきた学級通信を紹介

第二期 一新紀元  ラッカセイパーティー終了! 1999.11.4 No.78

 2日(火)、ラッカセイパーティーを行いました。

 ラッカセイを洗い、塩ゆでするところからスタート。

 ゆであがったラッカセイをすりばちですりおろし、あんとまぜます。

 次に、パイシートの上にそれをのせ、2つおりします。

 最後はオーブンで焼いてできあがり!

 ワイワイ言いながら、楽しい雰囲気の中、ラッカセイパイを作ることができました。

 できあがったパイは、上出来でした。

 パイをあまり好まない子には、ぼくが作った特製「ラッカセイだんご」(2個)を食べてもらいました。

 これもなかなか好評でした。

 

 子どもたちの感想。

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 ラッカセイパイをつくってたのしかったです。

 また作れる日をまっています。

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 すごくおもしろかった。

 たのしかったし、作って食べたのが、すごくたのしかった。

 何回でもまたやりたい。

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 たのしかった。

 それで、わたしもちゃんと、てつだいをした。

 ラッカセイパイをてつだってくれる人もいる。

 ラッカセイは、おいしかった。

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 たべたとき、すごくおいしかった。

 またいろんなやつを作ってたべたいな。

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 みんなでつくったので、おいしかったです。

 みんな、すごくがんばっていました。

 またしたいです。

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 たのしかったです。

 つかれたけど、おもしろかった。

 りょうりがおいしかった。

 先生のだんご、くいてー。

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 来ていただいた保護者の方々、本当に、ありがとうございました。

 

 春に、ラッカセイを植えました。

 大きく育ち、夏休み明けにはまるでジャングルのように葉が生い茂っていました。

 そして秋。

 葉も黄色く色づき、実ができました。

 そして収穫!

 「みんなで食べよう。」ということで、ラッカセイパーテイーをすることになりました。

 何を作るか相談し、ラッカセイパイに決まりました。

 ただ、「パイが苦手」という子どももいましたので、私が「ラッカセイだんご」を作り、食べるときはそれを食べることにしました。

 「失敗してもいい!」ので、作り方を確認の上、子どもたちに作らせました。

 ※ 安全上、保護者の方にもご協力いただきました。

 「何かを作って食べる」活動は、私が大切にしてきたものです。

 食育といった大げさなものではなく、

・ 話し合う

・ 準備する

・ 役割分担をする

・ 食べる ・・・ 「おいしい!」そして、笑顔

・ 片づける

・ 振り返る

 こういった活動が、仲間づくりにつながり、家での仕事につながり、生きる力になると思います。

 作ったものは、職員室にも届けさせます。

 「幸せは、分け合うんだよ。」と、子どもに話して。

 「おいかったよ。」「ありがとう。すごいね。」

  こういった言葉が返ってきます。

 子どもたちは、また一つ、自信を持ちます。

   

 

第二期 一新紀元  これは、おかしい! 1999.10.20 No.70

 学級通信『キラキラ星』は、その名の通り、子どもたちのキラキラ輝く部分をお伝えするものです。

 でも、時にはそうではない部分。

 考えていかなければならない部分も、伝えざるをえない時があります。

 「これは、おかしい」は、まさしくそういった内容です。

 見逃すことのできない実態です。

 これをもとにして、子どもと共に考え、話し合っていただきたいと考えています。

 

 2日前のことです。

 体育を終え、教室にもどると、AがBにたおされ、おさえこまれていました。

 何をしていたのか、原因は何なのかを聞きました。

 はじめ、AとCがもめていたそうです。

 BはCを助けようとして、上記したような状態になったということでした。

 では、AとCはなぜもめていたのか。

 CがAに、つばをつけたことが原因だということです。

 Aは「きたないなあ。」と怒り、もめごとが始まったのです。

 

 ここで問題が2つあります。

 

  1つは、Cはなぜ、Aにつばをつけたのか。

  2つは、BはなぜAではなく、Cの味方についたのか。

 

 Bは、「Cと友だちだから。」と言いました。

    では、Aとは友だちではないのか。

 そうではありません。

 Cはなぜ、Aにつばをつけたのか。

 ぼくは、

「同じことを、Bにできますか。」

と、たずねました。

「できない。」

と、答えました。

「Bにできないことが、どうしてAにできるのですか。」

「BとAには、どんな違いがあるのですか。」

と、問いました。

 

 B,C2人の行動には、明らかにAを軽く見ている「差別性」を感じましたので、追及しました。

 そして、そういったことからいじめが始まり、相手の心を深く傷つけ、ボロボロにしてしまうんだということ。

 時には命まで奪ってしまうこともあること。

 そうなったら、君たちの将来や家族はどうなるのか。

 いじめられ、追いつめられ、命を失ってしまった人の家族は、どんな思いなのか。

 大切なことですので、これらのことを話しました。

 

 実はAに対しての「物をかくす」等といった嫌がらせは、1年生の後半から

あったということを聞いていました。

 「いじめ・差別は絶対に許さない」と宣言していながら、まだこのようなことがあることに、力のなさを感じます。

 こういった「差別性」に気づかせ、それがいかに人を傷つけることであるかを、今後授業化し、考えさせていきたいと思います。

 

 

 Aに対することは、おそらく全担任からの引き継ぎで聞いていたのだと思います。

 これまでもBやCとの関係を気にかけ、注意深く見守ってきたはずです。

 それでも、こういったことは起こります。

 起こった時、「これはおかしなことなんだ。」ということに気づかせ、相手の気持を「想像」させる。

 「自分のこと」として考えさせる。

 そういった機会と捉え、子どもたちに投げかけていく。

 子どもたちとの日々は、平坦ではなく、でこぼこ曲がり道。

 だから、「熱量」が必要なのです。

 この頃は、まだまだ「熱い自分」がいました。

 

 

 

第二期 一新紀元  跳べた!跳んだ!!  1999.10.19 No.69

 体育で跳び箱をしています。

 1学期の終わりぐらいから布石として、「跳び箱に跳び乗ってジャンプする」等の運動をしてきました。

 そして2学期、少しずつステップをふみながら、「開脚跳び2、3段」跳べることを目指しています。

 

 ポイントはいくつかあります。

 ① つま先で強くふみきる

 ② 両手を開いて(パーの形で)、前の方につく

 ③ 両手で体を支え、前へ体を移動させる

 ④ マットの先の方を見る

 

 その中で特に、①と③は大きなポイントです。

 ①の「ふみきり」を強くするために、「ふみきって跳び箱に跳び乗る」あるいは、「跳び越す」練習を繰り返しました。

 少しずつ子どもたちのふみきりは、力強くなってきました。

 ④の「視線」については、ぼくがマットの先にしゃがみ、

「先生を見なさい。」

「とびこんでおいで。」

と、声をかけました。

 すると、自然に体が前へ前へくるようになりました。

 ②③については、手本を見せたり、跳び箱にしゃがませ、両手をついてゆっくり遠くに跳び下りる練習をさせたりしました。

 (1)両手に体重をかける

 (2)体を前へ移動させる

 (3)両手にかかっていた体重が軽くなる

 この一連の動作ができれば、ほとんど跳べるようになります。

 100%に近い数字です。

 

 さて、昨日の体育。

 練習後、2段から順にチャレンジです。

 2、3段のどちらかが跳べれば合格です。

 次々子どもたちが跳び、4段にチャレンジしていきます。

 残りは2人。

 TくんとHくんです。

 補助をしながら、軽くおしりを押しました。

 だいぶ前に行くことができてきました。

 ふみきりの位置を、少しずらしました。

 肩が少しずつ、前に出てきます。

 視線を、マットの先へ!

 補助をして支える手が、軽くなってきました。

 もう少しです。

 そして、ついに、跳べました!!

 2回目も、OKです。

 みんなの前で、跳んでもらいました。

 2人とも、跳べました。

 今までで、最高の跳び方です。

 拍手が2人を包んでいました。

 

 

 「跳び箱を全員、跳ばす」この実践は、私がよく読んでいた教育書に載っていたものです。

 どれだけ繰り返し読んだかわかりません。

 私にとってのバイブルであり、私を救ってくれた本なのです。

 その実践を、私は毎年行ってきました。

 ただ、私は力がないため、「全員跳ばす」事ができない年もありました。

 この年は、このように全員跳ばすことができました。

 そのときの嬉しそうな顔。

 大きな拍手を受けたあとの、はにかんだ顔。

 「できないことができる。わからないことがわかる。」ようにするのが、教師の仕事です。

 そのために、本を読み、話を聞き、実践を見て、話し合う。

 前にも書きましたが、日々、教師修業。

 学びを止めては、いけないのです。

第二期 一新紀元  まず、自分で考える力を  1999.10.16 No.67

 近ごろ気になることの一つに、「考えようとしない」ことがあります。

 特に、新しい課題や問題を出したとき、すぐ「わからない。」と言い、書いてあることを読めばよいのに、パッと見ただけで質問をして、やり方を聞くのです。

 このままでは、自分で考えようとせず、安易に答えを求めてしまう「くせ」がついてしまいそうなので、読めばわかるときは「読んでください。書いています。」と答え、まず考えさせるようにしています。

 まだ十分ではないし、読んでも難しそうなときはヒントを出してはいますが、「生きる力」として、「自分で考える」ことは大切ですので、各家庭でもご協力ください。

 

 昨日の算数のテストのとき、いつもは説明してから行っていたのですが、一切説明せず始めました。

 質問も、20分ほど受け付けませんでした。

 それでも最初、

「名前、書いていいの?」

「(裏と表)どちらからしてもいいの?」

など、あたりまえのことを聞く子もいましたが、冷たく突き放しました。

 今日の国語のテストも、同様にする予定でいます。

 

 他の場面でも、このような「あたりまえのことを聞く」ことや、考える前に安易に方法・答え等を教えてもらおうとすることは多いです。

 一例をあげますと、

・ 「(手が汚れたとき)洗ってきてもいい?」  ※洗わないでどうする!

・ 「(1限目が終わり)2時間目は何?」 ※予定黒板に「算数」って書いとる!

・ 「このゴミどうすんの?」 ※目の前のゴミ箱は、何のためにあるのだ!

・ 「(昨日の宿題で、『◯の中に「じ」か「ぢ」、「づ」か「ず」を入れて、言葉を完成

         させなさい』)[本のつ◯き]・・◯の中に何入れるの?意味わからん。」

         ※よく読みなさい!どの文字を入れると意味が通じるか、考えるのだ!

 

 さすがに「トイレに行っていいですか。」「(おかずを)残していいですか。」とたずねてくる子どもはいなくなりました。

 大人として、子どもたちに「生きる力」「自分で考える力」をつけるためにも、「簡単に答えない。」「まず考えさせる。」こういったことを積み重ねるべきだと思います。

 子どもの言葉の先取りをして言ってしまうことが多々ありますが、それでは考える力も、話す力もつきません。

 一呼吸おいて、

「どうすればいいと思う?」

と聞いて、ぎりぎりまで考えさせてください。

 学校でももちろん、そうしていきます。

 

 

 時間がかかっても、子どもに返し、子どもに考えさせる。

 教えすぎることは、親切でも優しさでもありません。

 「考えてごらん。」「どうすればいいと思う。」「あなたは、どうしたいの。」こういった言葉を返し、それを貫いていく。

 もちろん、支援の必要な子どもには『ていねいに教える」事も必要です。

 個には応じますが、基本姿勢として大事にしたいことです。

  

 

第二期 一新紀元  さっそく行動 1999.10.15 No.66

 先週の図工の時間、手洗い場の周辺が水でぬれていました。

 パレットや筆、水入れなどを洗った時、水がとびちったり、したたり落ちたりしたものです。

 残念ながら、そのままでした。

 「ぬれている。」「すべった。」と言いに来るのですが、それならどうすればいいのか、考えて動けるようになってほしいと願っています。

 子どもたちに、

 

   描いている絵はどれも力強く、すばらしい。

   今までの、最高傑作だと思う。

   でも、後片付けができていない。

   廊下がぬれたままだ。

   誰かがすべって転んだら、ぬらしたまま放っておいた2年生の責任だ。

   最後までしっかりとかたづけてほしい。

   そうしたらもっと、すばらしい作品になる

 

 このような話をしました。

 

  そして昨日、図工で絵の続きを描きました。

  かなりの集中力が必要な絵ですので、みんな疲れています。

  早く終わった何人かが、パレットや筆を洗いに行きました。

  しばらくするとTさんが、

   「Yくんを手伝っていい?」

    と、たずねにきました。

 「何を手伝うの?」

   と聞くと、ろうかをYさんがふいているので、それを手伝うのだということでした。

  うれしかったのですが、きわめて冷静(クール)に、「いいよ。」とだけ答えまし 

 た。

 

  その後、廊下を見に行くと、Rさんもふいていました。

  先週のことを振り返り、さっそく行動に移していたのです。

  りっぱなことです。

  おかげで廊下はほとんどぬれておらず、きれいになっていました。

 

  注意をしたら、次からできるようになるのかと言うと、そんなことはほとんどあり

 ません。

  それでもほんの1人か2人、行動できる子がいます。

  その事実をみんなに伝え、褒め、価値付ける。

  すると、次は5人、6人と増える。

  また褒める。

  かたづけをしようとしない子どもを叱るのではなく、できている子を褒める。

  それでいいのだと思います。

  良さを少しずつ広げ、あたりまえのこととして習慣にする。

  いつの間にか、それがクラスの「文化」となり、子どもたちの力になっていくのです。

    

 

第二期 一新紀元  あれこれ(2) 1999.10.12 No.64

 何日か前の、朝の会の時のこと。

 Aさんが宿題のプリントを落としました。

 自分たちもそんな時によくすることですが、Aさんは足を伸ばし、何とかつま先でプリントを手の届くところまでたぐりよせ、ひろおうとしていました。

 でも、なかなか届きません。

 (どうするのかな)と、様子を見ていました。

 Aさんがどうするかより、前に座っている子がこの事態に気づくかどうか。

 気づいたとして、どのような行動に出るか。

 やがてSさんが、プリントが落ちていることに気づきました。

 そして何気なくプリントをひろい、Aさんの机の上に置き、何もなかったかのように再び前を見て、朝の会に参加していました。

 ぼくは、美しい光景だと思いました。

 わざとらしくない、さりげないこのような行為は、とても美しいと思います。

 あたりまえのことですが、あたりまえがあたりまえでなくなってきているのが今の社会の風潮で、案外気づいても、知らんふりが多く、「先生、プリントが落ちています。」と、言いに来るのは良い方なのです。

 (「おちている」のに気づいたのなら、次どうすればよいのか考えて、行動できるよ

 うになってほしいな。)

 

 給食を食べ終わったあと、席を離れて騒いでいた子が何人かいたので、約束通り、「昼休みはありません。」と宣告しました。

 しばらくすると、宣告された6人の姿は見あたらず、「遊びに行ったな!」と、カッとなり廊下に出ると、なんと廊下を、ぞうきんでふいていました。

 自分たちなりの反省の仕方なのかと思い、しばらく放っておきました。

 1年生の(給食)ワゴンが、彼らのそばを通りました。

 牛乳パックの袋が落ち、散乱しました。

「あ〜あ。」という声。

 その声の中、Kくん、Mくんは牛乳パックをひろい集め、1年生を助けていました。

 これもさりげない、美しい行為です。

 

 生活科のあと、落ちているゴミを黙ってひろってくれているのは、Oさん、Yさん、Nさん、Sくんです。

 一番前の席にプリントを置いた時、その席の子がいないと、後ろの席までプリントを配ってくれるUくん、Gくん。

 前の子のいすが机の中におさまっていなかったり、自分でできないことがあったりした時、Eさんは自然にフォローしています。

 たくさんのこんな「さりげない」やさしさが広がればと、願っています。

 

 

 子どもたちをじっくり観察していると、普段とは違う姿や、ここでよく出てきた「さりげない」行動を発見することがあります。

 直接その子どもに声をかけ、褒めることもありますが、このように通信で名前を載せ、紹介すると、照れくさそうでいて、どことなく誇らしげな顔を子どもたちは見せます。

 そして、家で読まれることで家族に褒められ、ますますドヤ顔になることでしょう。

 また私もそういった姿を見つけると、とってもうれしく、ますます子どもたちのことが好きになるのです。