『忘れ物のオニを追い出す』ことに決まった次の日、何人かが「◯◯を忘れました。」と言いに来た。
集会での発表が上手だったことをほめた直後であった。
全員に聞いた。
「今日、忘れ物をした人は手をあげてごらん。」
8人程があがった。
内心ムッとしながらも、(初日だからいいか・・・)と、それ以上問いつめなかった。
給食の時間になった。
放送が始まった。
何度か書いたと思うが、放送委員さんの次の言葉で始まる。
”お昼の放送の時間です。
お話をやめて、静かに聞きましょう。”
2つのことをお願いしている。
① 話をやめること
② 静かに聞くこと
放送中、うるさいわけではない。
だが、2つのお願いが守られているとは言えない。
注意をするのは2,3人。
昨日もやはり、何人かがしゃべったり、ふざけたりしていた。
学級会で話し合った次の日だったので、カチンときた。
”あの話し合いは、何だったのか!”
決まらなかったもの以外も努力してなくしていこう、お互い注意し合ってなくしていこう、そう確認し合ったはずだ。
”あたりまえのことがあたりまえにできるようになりたいから”ではなかったのか!
放送が終わった後、一気にまくし立ててしゃべった。
そういえばマラソンだって、クラスのめあての「努力だ!」の部分ができていない。
決めっぱなし、言いっぱなしで終わっている。
自分の指導力のなさを棚に上げ、子どもたちにあたりまくった。
自分の給食を片付けに行く途中、「学級会で決まったこと」として書いた紙
”あたりまえのことがあたりまえにできるようになりたいから
忘れ物の多いオニを追い出すぞ、オーッ!”
を掲示板からはずし、破り捨てた。
「こんなのうそだ!」と言いながら。
何だか後味の悪い、そんな一日となった。
カッとなりやすい性格だったこともあり、ずいぶん乱暴な指導(?)だなあと感じました。
「こうしようね。」と言って、その通りになるのなら、教師はいらない。
子どもは(大人も)思う通りにはならない。
地道な指導を積み重ねるしかない。
それでも10人いて、2,3人に響くかどうか。
思う通りにならないから悩み、考え、勉強し、「これだ!」と思うものをやってみる。
その繰り返しです。
そうすることでしか、教師としての力はつかないのだと思います。
忘れ物の場面、今の私なら
「今日、忘れ物をしなかった人」
とたずね、例え1人でも思いっきり褒め、黒板に「1」と書きます。
次の日も同じようにたずね、忘れ物をしなかった人数を書く。
少しずつ、人数は増えるでしょう。
全員にはならないと思います。
それでいいのです。
できていることを褒め、それを広げていく。
その方が、子どもも気持ちいいと思います。