H君がケガをした。
右手の中指を骨折し、走ったり、ジャンプしたりもできないらしい。
朝、ケガしたことをみんなに話した。
「H君に、何かできることはないかな?」
と、たずねた。
すると、
・ (字が書けないから)H君の言ったことを代わりに書いてあげる
・ 給食を配ってあげる
・ できる遊びを一緒にする
などが出された。
話し合って決めようということになったので、4限目に話し合った。
昨日のことである。
いろいろな意見が出た。
・ 近い人が手伝う
・ 宿題は、次の日の朝、いっしょにやる
・ 日直さんは、「おたすけマン」だし、みんなできるから日直さんが順番に手伝う
・ 計算は、速くできた子が手伝ってあげる
・ 順番を決めて手伝おう(班、名簿順、プロの順など)
・ 漢字は指で覚えられるから、指で書けばいい
・ H君が自分でできることは自分でする。できないことをしてあげる
・ そうじで、できないような仕事は代わってあげる
みんなで手伝おうということで、意見はまとまっている。
問題はその方法である。
「近い人が手伝うことにしましょうか?」
と、聞いてみると
「だめだ。」
と言う。
「なぜ?」
と聞くと、
「友だちなんだから、みんなでやりたい。」
ということであった。
話し合った結果、「プロの順で手伝う」「となりに余っている机といすをつけ、手伝う人が交代ですわる。」「そうじは、できないような仕事はかわってあげる。」ことでまとまった。
こんな時こそ大切なのは友であり、助け合いである。
人は決して一人で生きているわけではない。
今日、H君は元気よく登校した。
朝さっそくH君のことを話しに来てくれた子がいた。
”宿題を左手で書いてきた”ことと、”その字がとても上手だった”ことを話してくれた。
僕も見たが、一生懸命さが感じられ、ジーンとなった。
授業中もがんばって左手でノートを書いていた。
周りの人の対応も温かい。
支え合うことの大切さを実感させたい。
H君はおとなしいが、いつもニコニコとしていて、優しい子どもだったと記憶しています。
そんなH君に、子どもたちは「何かしたい」「何ができるか」を考えます。
学級会を開いて話し合い、決めていくところが何だかほっこりしてしまいました。
担任である私が
「困っていることがあれば、できることをしていこうね。」
と言えば済むことです。
一人の友だちのことを思い、考える。
タイパが重視される今を思うと、「そこまでしなくても・・・。」となるのかもしれません。
でも私は、「話し合いたい」と言った子どもたちを誇りに思います。
友だちを、放っておけないのです。
こういった何気ない話し合いがとっても大切なんだろうな、ってしみじみ思います。